母の決断
朝7時前、近くで朝食を済ませたらしい一家が、いつもは食後20分ぐらい一休みするという池を真っ直ぐ横切り、ぐるりと建物の裏を周り、道路へ向かってやってきました。目指す川までは直線距離でも1キロ、母は、ヒナたちにとって命懸けの大移動を、まさに試みたところでした。ところが、道路の中央まで進んだところで、母はぴたりと足を止め、後ろを振り返り、ほんの何秒か思案すると、すぐさま来た道を戻り始めたのです。写真を撮ることに夢中になっていて、ヒナが何かしら黄色信号を発したのかはわかりませんでした。しかし、母は、今は戻ると決め、いつもの池まで再びやって来ると、それまで後ろを整然とついて歩いていたヒナたちは、我が家に帰って来たとばかりに散らばり、水草を引っ張り上げたり、潜水してみたり、思い思いに遊び始めました。
カワアイサという名前の通り、彼らは水鳥ですから、地上を長時間歩けるような脚にはなっていないのでしょう。実際、母鳥が道路の真ん中で立ち止まった数十秒の間、6羽のうち3羽のヒナがぺたりと座り込んでしまっていました。体力も脚力も、まだ川までの道のりを乗り切れないとの判断だったのです。
彼らの護衛ボランティアの方や、連日通い詰めていると思われるカメラマンたちから漏れ聞こえてくる話によれば、前日も移動を試みたようでした。もしかしたら、母鳥は初めから今日が”その日”だとは思っていなかったのかもしれません。ヒナたちの体力をつけ、道路を歩くことに慣れさせるためでもあったのかもしれません。一方で、日に日に大きくなるヒナたちを養えるだけの餌が、池の周辺だけではいずれ得られなくなってしまうそうです。キツネやカラスに襲われてしまうリスクも常につきまといます。人間たちがヤキモキしている以上に、母鳥の使命感は日に日に重くなっているはずです。
きっと行程を全て見届けられる好機には立ち会えないだろうと思います。でも、そう遠くないうちに、彼らが無事、川へ引っ越して行ったというニュースが何かしらの形で耳に届くことになるでしょう。その日を楽しみに待ちたいと思います。