木の懐
積み上げられた雪の山がとけ始める頃、道端に小鳥たちが集まり始めます。車が通るたびに、集団で飛び上がっては車の進行方向の先へ降り、また追い立てられて飛び上がるというようなことを繰り返すことがしばしばあります。こちらとしては、横へそれて林の中へ逃げ込んでもらえれば逃げるのは一度で済むのに、などと思うのですが、食べこぼした木の実が、気温の上昇とともに雪の中から再び現れてくる季節、そこは鳥たちの離れがたい餌場となっているようです。
先日、木は表皮近くに集まっている水や養分の通り道さえ通じていれば、内側が食いつくされたり、腐ってしまったりしても生きていくことができると教えてもらいました。初めにこの話を聞いた時、実は、少し腑に落ちませんでした。確かに、森には片側が朽ちて枯れてしまっているようでも、見上げると生きた枝を伸ばし続けている大きな木があり、その生命力の強さに驚かされました。一方で、数センチのわずかな幅であっても、表皮をぐるりと一周虫やシカに食べられ、あっけなく枯れてしまった若い木も沢山あります。なぜ大切な部分を、危険にさらされやすい外側に置いたのか、不思議に思えたのです。
しばらくこの疑問が頭にありましたが、道端に集う小鳥たちを眺めていて、理由のひとつが浮かびしました。木は動物たちの食べものを提供する一方で、家でもあります。クマゲラやアカゲラが開けた木の穴は、彼ら自身だけではなく、モモンガやゴジュウカラ、時にはコウモリなどの子育ての巣となります。もし、木にとって生きていくために重要な部分が木の中心に集まっていたら、巣穴を開けられた木は皆枯れてしまうことになるでしょう。枯れてもろくなった木が倒れてしまえば、生き物たちは毎年、新しい巣を求めて穴を開けなければならず、それによってまた次々と木が枯れていくことになります。虫を食べてくれたり、種を運んでくれたりする大切なパートナーに毎年子育ての場を提供できるよう、しいては彼らたちとの共存関係を保つために、木は大切な器官を中心部分へ置かなかったのかもしれないと思い当たると、すとんと胸に納まった気がしました。懐が深いという言葉は、そんな大樹を表しているように思えるのは、きっと私だけではないでしょう。
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